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ネガティブな発信
2024年8月25日

Xをはじめ、自分に向けられたものでないとしても、否定、批判、悪口、嘲笑・・・とにかくネガティブなことが気になってしまう。

これらは一意見として発信すべきだ。そもそも多様な意見が何のしがらみもなく自由に流通しているのは健全なことだ。

ただ、単にある一面だけを取り上げた悪いことを指摘しているだけのネガティブな発信は思考停止の自慰行為であると言わざるを得ない。

そもそもだが、どんな人物でも何かに判定を下せる権利なんてないと思う。どんな対象でも良いことも悪いこともあるし、その捉え方も人それぞれ。判定を下すこと自体が自分の見えている範囲のことを自分の基準で判断しているだけにすぎない。全知全能の神でもない唯の人間がさも絶対的なことのように判定を下すのは思い上がりもいいところである。あらゆる発信は、自分本位の自分からの見え方についての発信であることが前提となる。その前提に立って発信している人があまりに少ないと思う。

悪いと思うこと自体は一つの意見として分かる。どんなものでも良いことばかりではない。それは事実だし、改善すべきことである。また、自分では気づけない改善点を指摘してもらうのは大変重要なことだ。

だが、自分のコントロールできることは自分に関することのみであるということを忘れてはならない。つまり、いくらある事実を認識させ、行動を誘導したとしても、最終的にその行動をするかはその人自身の課題であって、自分の課題ではない。

ただ単に悪いことを繰り返し指摘する。そこで終わってしまっては、指摘された相手からすれば単に悪いことを認識するのみで、それ以上のことはない。ただ不快になるだけである。これは誰にとって得になっているのか?せいぜい不快に思っていることを吐き出してすっきりした気になっている、ネガティブな発信をした本人だけだろう。また、実際に改善されるかどうかを自分でコントロールすることができない以上、ネガティブな発信をした本人にとってもずっと不快な状態が続くことになる。

よって、せめて改善につながるような提言を入れて行動を誘導すべきだが、そもそも自分のコントロール外のことに躍起になっても仕方がないと思う。自分の関わり方を変えるとか、自分のコントロールできる範囲で改善するのがよほど良いのではないか・・・と考えてしまう。自分のコントロール外のことにいつまでもネガティブなことを言っているのは、誰にとっても不利益で無駄でしかないんじゃないか。

こうは思うが、これもたくさんある考え方の一つだし、これを書いたところで誰かの発信のしかたが変わるわけでもない。そういうわけで、フラットに受け取れるようになるまでは一時的にXなどを開かない、という対処をとることにした。

だが、本当は自分の楽しいと思うことや自分の考えたことを気軽にXで発信したいところそれができなくなるし、あらゆる発信を見れず孤立感をすさまじく感じる。難しいところだ。

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